開会のご挨拶
「熊野大学聴講生による熊野を語る会」第1回の開会の挨拶をさせていただきます。呼びかけ人の一人の石井泰四郎と申します。よろしくお願いいたします。
今日はご参集いただきまして、本当にありがとうございます。今回は熊野大学夏季セミナー等を通じて知り合いになった方々たちへの呼びかけ、ならびに日本大学の学生の皆さんや指導教官合田先生のお世話になり、会場を確保いただいたことを心から感謝いたします。
僕は熊野大学夏季セミナーの聴講生です。此の歴史ある会に参加したのは4年前からです。そのため熊野大学に関しての知識は相当少ないです。ただ何といっても、「建物もなく、入学試験もなく、卒業は死ぬとき」というキャッチフレーズにこよなく魅せられているものです。
そこで、ただ飲むだけの会ではつまらないし、発展性がないよねという事になり、日程をすり合わせて、年4回ぐらい講演会や学習会などを、春夏秋冬やろうよという話が事の発端なりまして、特段、高邁な目的があってのことではなくて、将に宴会・飲み会から駒が出た様な、まったくもって、ひょんなこと言いますか、いい加減といいますか、そんなこんなでトントン拍子に事が運んで、今日に至たったというのが偽らざる経過ということであります。この、いい加減さの点はご容赦ください。これらのことは、熊野・中上健次というキーワード、1点により関係というか、知り合えた人たちのまったくもって勝手な、また逆に必然性のなせる業です。共通項が一点あるだけで、人が交わり、広がりを持つという楽しさというか、嬉しさみたいなものがあるということを実感しております。
今日のこの会が、出来ればことしの8月2日、 3日、 4日に行われる熊野大学夏季セミナーに多くの方に足を運んでいただけるきっかけになれば、このセミナーが熊野・中上健次を感じていただく機会になれたら、これにも増しての喜びはありません。
先ほども話しましたが、単純というか、呑み会の延長というような軽いノリで始めてしまったこの会ですが準備不足は否めません。これを機会に参加者の皆さんと話し合いを重ね、行動しながら考え、会を盛り上げて行けたらいいなあと願っているところであります。
この後、レジュメの通り進めさせていただきますが、メールや口コミでお知らせした内容と少し異なっておりますことをお詫びいたします。今日は第1回目ですので、自己紹介や意見交換の時間を可能な限り取っていきますので、その時は是非忌憚のないご意見をお聞かせください。
会を始める前に呼びかけ人を紹介させていただきます。中上紀さん、日根かがりさん、藤原舞子さん、杉崎由佳さんです。進行・司会につきましては藤原舞子さんと僕、石井でで進めさせていただきます。ではこれから会を進めていきます。よろしくお願いいたします。
日根かがりさんの「中上健次が熊野の先に観ていたもの」
和歌山県広報課に勤務しています。私は文学的というかアカデミックなことをしてきた訳でもし、ただ中上健次さんが熊野で育ち、同じ熊野というか、和歌山県の西側に育ったのものとして、日ごろ感じている事とかですが、中上さんが何に拘ったのか、初めての会ですので熊野を語り、中上健次さんを語り、という入り口としてやさしいお話をさせていただけたらいいかなと。
今年の4月県庁の方に戻りまして、此の5年間、東京での和歌山県のPRをしてきた。そんな関係で特に中上健次さん没後20年ということもあって、娘さんの中上紀さんに、健次さんが今の時代にメッセ-ジとして何を残したのかを、発破をかけたりしながら、去年からプレスに向けたマスメディアにブリーフィングしたりしてきています。
熊野大学というのは中上健次さんが熊野にこだわったという熊野に、東京というわけでなく、熊野にこだわり続けたという一体何なのかなあ、というのをいつも考えています。熊野を語る時、よく言われるのですが、もしかしたらこれが最初かもしれないのですが、20数年前に熊野のイベントの時に黒田征太郎さんが「熊野は色が濃いんだよ。すべての色が濃い所なんだよ。」、その言葉に私は強い印象づけられて、なるほどなあと思いました。熊野がいろいろ取り上げられるとき、山の緑、海の青それから勿論川の澄み切った色、本当に夜の闇は真っ暗で特に都会で生活していると、都会ではそうでもないのかもしれないが熊野に来られた方は暗いことに驚かれます。こんなに暗いのか、こんなに海がすぐあり山の影、山が迫り、海の真っ暗な、漆黒の闇というのを強く感じるところです。
色が濃いという事は人とか其れらの周りにある空気、熊野にすべてのものが強く、強く発しているという、そういう場所なんではないかと勝手思ったことがあります。その気持ちは今も、何度いっても変わらないです。10年前くらいに熊野と近くなりました。私は紀伊半島というのは、ずどんと海に突き出している。太平洋に面して入る大きな半島ですけれど、私はその西の端っこ側の和歌山市内に生まれ育ちました。熊野というのは、中上健次さんが育った新宮などは東側の端っこになり、子どものころは観光で来ることはあっても意識はなかったが、大人になって知るようになった。観光では熊野というのは死語になっていて、南紀白浜、南紀勝浦、南紀串本レジャー地を代表する言葉として成っていて、南紀というところから、確か昭和60年ころ、世紀末と言われ心の時代という事が言われ始めたころ、哲学者の梅原猛さんなどの沢山の方々が、デザインなんとかチームを立ち上げられたと思います。
熊野という言葉が復活したというか、其の頃じゃないかと思います。世紀末に向けて、バブルもはじけた頃、心の時代ということで熊野をもう一度見直そうではないか、言いだされた時。熊野でのフィールドでの仕事が多くなり熊野に通い出した。成るほどこういう場所、ところなんだと強く実感して惹かれるようになり、今では出身がこちらではないかと間違われたりして(笑)、それ以来、深く関わらせてもらっています。
そういう中で徐々に中上健次さんが関わり、実は熊野というのはすごい所じゃないのかと言われ出して、それから2004年に熊野が世界遺産に登録され、いまでは紆余曲折があったんですが、世界遺産という意味は何に起因するかというと紀伊半島が大きなキーワードになります。和歌山というのは新幹線なんかからも外れ、かつては海上交通の、交通の要所だったんですけれど、すっかり、ポコンと紀伊半島が置き去りにされた様な、場所だったんですが。
その大きな紀伊半島に高野山、吉野、熊野三山、これらの3つはそれぞれ起源も異なるし全く違った宗教がこの地域の大きな繋がりの中に存在して、それぞれが道で結ばれお互いが利用し合うという、いわゆる多神教の国の文化と云うんですか、そういう形態が紀伊半島には色濃く残っていると世界遺産登録された一番大きな意味だと思うんです。
で、世界遺産登録された、登録の価値の中に文化的景観、ラウンドスケープがありま、と言いますが、文化的遺産、文化遺産というのは過去の遺物という昔の者というイメージがあるのですが、そうでなく、未来に残すものと訳されていることもあり、紀伊半島に残る文化と自然一体の景観そのものが、空気そのものが世界遺産というもの、登録された、文化的景観だということに非常に深い意味を覚えました。何か、有名な人が作りましたとか、変わったすごい建造物であるとか、わかりやすい価値があるという訳ではなく、人と自然が一体になって一緒になって、人の営みが自然と共に創り上げてきたという、景観という、文化的景観とう意味なのですが、分かった様な、分からない様な深い意味のところで、世界遺産の基準というのもいろいろあるもんだなあと思いました。
ただ,単に人間がつくったものというものでなくそこに紀伊半島の自然というものが深くかかわりあっているという間違いなく、古くから神々が存在するという、自然を崇拝し、関わりながら、社寺に繋がる道がありそれらを利用しながら、神と共に暮らしてきたという関係の文化、多神教の文化、日頃はいつも意識などしないけれども、日本人古来の日本人の心の奥にある神々が宿るという精神文化のルーツ、原点みたいなものが、この紀伊半島にはありますよというのが世界遺産の評価なんだと理解しています。
日本人の精神文化の源流とかルーツとかという言葉は、我々の世界遺産を語るとき使うのですけれども精神文化DNAとか、血というかことばにつながるのかなあと、日本人の精神的文化強く感じるもしくは一寸は忘れてしまっているかもしれないけれど、その眠っているかもしれないがものを一寸呼び起こしてくれる様なそういう場所がいまの熊野ではないのかなと。中上健次さんの作品をやはり非常にいろんな意味で色が濃いです。かつ血という意味で言うと、人によればどろどろっとした感じが、今のライトな、今の時代の人にはには読みくだしがたい、学生さん達と話していると、ちょっとね。読んだこともないと言う人がいたり(笑)。
村上春樹は読んでは居るけれど、このまえ新しい本出されましたけど、それでも熊野に行ってみようと思ってくれたのはほんとうにすごいよね、できれば読んでほしいんだけど(笑)。熊野から入っても、それは一つの入り方だと思う。昨年、夜どおし話していたのを思い出します。
日本人というと少しお話がそれるんですけれど、先ほど多神教の国の文化と言いましたけれど、東京で5年暮らしてみて、東京というところは、東日本の地形というのは山と海が本当に遠いなというのを感じて、西日本の地形というのは海と山とか川そして川がだきあって常に一体となっていると言うか存在しているのですが、東日本は本当に海は海、山は山の感じで、海と山がそんなに繋がっているようには感じなくって、大地があって3000メートルという山があって、熊野古道が世界遺産に登録されたころには、冬は山は雪なんですよねと、よく言われたんですよ(笑)。
熊野本宮大社も山の中にあるんですけれど、海抜80メートルくらいしかないので、熊野古道は大好きで冬でもよく歩くんですけれど、こっちに来てみて、山並みが連なるという景色というと、やっぱり山岳地域になっているので、雪が降ると言われてもしょうがないよねと。その地形から来る感覚の差というものは、初めてこちらに暮らしてみてよく分かったんですけれども、でも、本当に西、紀伊半島の地形というのは、そうやって、海と山がほんとうに抱き合っている。リアス式の海岸として和歌山県だけで630キロもあり、ビヨーンと伸ばすと東京―大阪間よりも長いと言われ、入りくんでいる、そんな複雑な地形です。そういうその複雑な地形で自然の恵みもすごい豊かで、町という街には温泉があり、海のもの川のものいろんなものが、一年中豊富に食べられます。ある意味で自然と近いという事は食材と近いということで、食べ物のコストパフォーマンスはいい場所です。中上健次さんは新宮の食を大層、多分愛していたのではないでしょうか。新鮮なものがすぐそばで食べられます。
話がそれますが、年中、無計画に生きられる場所でして、寒い処、雪が降る寒い処だといろんなことを考えて、冬になると、食べ物は関係ないですけれども、スタッドレスタイヤに履き替えて、そういうのをちゃんと履き替えたりはするのですけれど、一年中何も考えないで生きていけると言うそういう緩さが、多分、紀州和歌山の特徴で、熊野なんかも、そういう緩さ、かっこよくいいかえればおおらかさというものが残った場所です。
おおらかさは、私は多神教の文化と言われますが、神様も仏様もみなどっちも偉いんやな、という感じで、自然ともそうですけど、災害等も紀伊半島ではよくあるんですが、でも、自然の恵みがもたらしてくれてて、一緒に生きてるものとして、自然が機嫌が悪い時もあれば暴れる時もあるんで、皆一緒やと言われます。そういう意味でいろんなものと折り合う異文化とカスタマイズするというか、自然、自分たちの力の及ばないものに対して何か戦おうとするのではなくて、どこか、崇拝して、お祭りして、どこかで折り合いをつける、折り合いをつける文化というのは、ある意味で、おおらかさにつながり、日本人の大人の文化であり強みなのではないか、折り合う文化というか折り合う気持ちというのは、イエスかノーとかいう、どちらかを選べと言う時はちょっと苦手かもしれない。いろいろ違いのあるものをひとつに認めて、何となく、まあええ塩梅に皆で暮らしていけるようにするそういう柔軟な心持ちが日本人にはあって、一寸極端になったら熊野のようにおおらかな場所になるんではないかと思っている。
以前、山折哲男先生にお話しを伺った時、先生が日本人と神の関わりは2種類あった、信じる神を持つこと、もう一つは感じる対象として神が居るという、日本人は、ヒンズー教の人たちも近いと思うが、絶対的神様が居るわけではないし、神様の気配をいろんなところに感じて、日本は神様を信じるかどうかという、信じているかというというところにあるのだと、気配を感じるというか話を聞いたことがある。
なるほどなと。自然の多様性というものが中にある国に見られるんだよ。今は便利になって、自然がドーンといなって、神のいるような多様なごちゃごちゃ混じっている様な、もしかしたらそんな自然の紀伊半島が一番色濃くしている場所かなと思ったりしてます。
特に、南の方に突き出した半島なので、北向きは昔から日本人の縁起の良くない方角であって、南方浄土で極楽浄土があると思っており、南は熊野を含め和歌山は常に海の方向に面しているので、其のあたりからもおおらかな気質が関係してきているのかなとか、南の方から流れ着いてくるもの、南からやってくるもの、本当にウェルカムで、まれびと信仰というかすべてを受け入れて、すべてを歓迎する様なそれに近いのかと思う。南から流れ着いたものはもしかして極楽浄土から流れ着いたものかいなと、漂着物をそのままお祭りしている神社とか、トルコとの友好の懸け橋になったエルツール号という、トルコこと友好になったきっかけの海難事故、船が沈んだ時、人を助けたという話、すごく、日本とトルコの友好に繋がってくる、外から入ってくる人を歓迎するとそういういう緩い処があって、大昔から一杯入ってきたり、育てたり、祭ったりしてきているし、植物も非常に多様で、南方からと少しやや冷たい場所までの多様な植栽が見られるという自然を持っているところです。和歌山では1500メートルくらいですから。
そいうそう場所というのはなかなか触れる機会がなくって、色の濃いというかなんか其のまんまのむき出しの自然、其のままの空気が残っている場所に、東京にあるインテリジェンスをポーンと放り込む、放り込んでしまいたい様なそういう気持ちが多分、中上健次さんは強かったんではないかなあと、ちょっと生意気ですが感じるところがあります。
やはり何となく現地に行かないと感じられない様な空気みたいのもの、目にできない色とか、そういう質感とかにこだわって、熊野大学というのも熊野という場所にこだわって、考えてされたのかなぁ、つらつら思うのですが、中上健次さんが育った熊野の新宮というところは、お手元にある先月でたところの和歌山県の広報誌「和―nagomi-(20号)、タイトルでバックナンバーが引けますにので、興味あったらご覧いただきたいのですが、いろんなことがでております。
ここで、中上紀さんに登場いただいて、しかも息子のレオ君にも登場いただいて、「おとう祭り」に上(のぼ)ったところの、新宮の代表的なお祭り、「おとう祭り」について題材にちょっとしたコラムを載せています。「おとう祭り」というのは新宮という地を象徴的に表しているようなお祭りだと思う。
表しているお祭り、意味なく1400年も続いている。熊野の神様が降臨されたと言われている「ごとびき磐」という大きな岩が、海からも見える上にずどんとそびえて居、神倉神社としてお祭りし、山の上まで行くのは大変なので、神様を下でお迎えする社の速玉大社というのを作り、そこの神倉神社本宮の神様を、神様をいつもお参りするのだけれども、下に置いた神様を何時でも自由にできお参りできるように、社として迂回する場所を大きな、朱塗り速玉大社というのを要していてのお祭りしているのだけれど、美しい屋根のついたお宮にお迎えしました本宮に新しい神様をお迎えするということで新宮を創った場所、なのでその一帯を新宮とそう呼んでいる。
先だって、辻原登先生が最近「許さざる者」というご本を出版されましたけれど、熊野新宮ご出身なので、其の本の中では、新宮を「森の都新宮」といっているんですが、他は殆どそのままの旧地名等になっているのですが、本宮に対して新しいお宮を建てて、その一帯で、新宮という街は、2月6日の寒い時期に行われるおとう祭りというのが、ある意味で新宮の人たちにとってはお正月、年の始まり、それが信念で、そのお祭りを中心に、節目になっているお祭りです。男の人だけがいまも、上(のぼ)れて、今も上がり子さんとか上りさんとか言って居るのですが、白装束に着替えて、松明を持って、神倉神社の本当に上の狭い岩場の空間ですが、そこに2000人近くの人が、上り子になるわけです。松明を持っていっきに駆け降りるのですが、昼間上ったらこんなところを駆け降りたら絶対怪我をするよなどと思うところですが、上られたことがあることと思いますが、あの階段を駆け下りてくる夜ですよ、こんなんなんてもう絶対降りて来られないと思うところを2000人の人が下って来ます。松明の火がずらっと並んで降りてくるので、下り龍という風に呼んでいるようです。「山は火の滝、下り龍」。それだけですと、男の人のお祭りのようですが、その男の人を迎える、女性にとっては迎えると言うウイニングランの様な(笑)、女性がずらあっと並んでいるんですね。神域の橋を渡った先の通りに、時にザーッと、新宮中の女子という女子がずらあっと並んで、まれにはお爺ちゃんおばあちゃんなどもいるのですが、ずうっと両脇にビクトリロードにして並んで迎えているんですよね。
中上紀さんも書いてらっしゃいますが、その男と女というか、強く意識するというか強く感じると頭の中で考えると言うより、DNAとか血とかうというものによって、男の血が騒ぐぜとか、女の血がこうなんというか湧きあがるぜという様な感じで(笑)、何となく、今も色濃くセックスが残っているお祭りだと思うのです。やっぱり、火というのはトランス状態というふうになるのか、考えてみれば、松明を持って火つけてただ降りてくるだけのことですけれども、松明に火を付けて、夜ただ掛け降りてくるだけなんですけれども。その終えた、降りた後の2時間ぐらい待つくらいなんですが、降りてくるのは遅い人でも30分くらいで降りてくるんですけれど。
皆さん、私たちの前を通る時人は誰かれもが高揚して、誇らしげな満足感というか、松明の残り火でやっとにたばこにパットつけたりしたおじさんが居て、かっこいいんですよ、しびれるね(笑)。たまらなくかっこええと、よく映ったんですよ、カッコいいんですよ知り合いでもなんでもないし(笑)。ふっと見ただけなのにしたというか、ゾクゾクっと感じるんですよね。それくらい高揚したそんな男とか女とか、どちらもそいうものを性を強く感じさせてくれる、非常にきわめて原始的なお祭りなんだなあと思います。
一番か2番で降りて来た人は昔はおおもてに持ててで、女子には困らなかったというので、ある意味で、強い子孫を残したいという、そいうこう感覚で、お祭りというのはそういうことというのがあろうかと思うので、トップランナーさんはちょっと何人かかけ持ちをできるとか、言うか、許される特権があったとか。昔は。米1俵とかを。
今年も一番2番で降りてきた人たちを皆な触れるんですよ、これはご利益があるのか、降りて来た人そのものが神様なんですよね、おそらく。だから触ったりいろいろしてますし、小生意気な中学生くらいの子らが、彼女なのか女友達なのか偉そうに、お降りてきたら肩をトントンと叩いてこんなもんやと、ほほえましかったり、羨ましかったりしながらそんなコンなしてるうち、私たちらはレオ君を見失ってしまって、レオ君はまだ8歳にならんかとするくらいですが、お母さんが居たのを知っていながら、お母さんと言わずにお母さんの前を知らん顔して通り過ぎて行ってしまった(笑)。一人で着替え行って、一人でそのまま帰ってしまったという、これは将に男子の血が騒いんだのではないかなぁと(笑)。
私たちはずっと最後の最後まで待って居たんですよ。遅いね、何かあったのかな、電話したらもう帰っているよとおかあさんいたじゃ、(爆笑)。おおたくましい、男の血が騒ぐのかなあ、自立という血が騒ぐのかねえと、面白いねえ、男だねえと。「おとう祭り」がずっと続いている街なので、ある意味ではちょっと早熟な街のかもしれません。新宮という街は。皆、男、女を子どものころから必要以上に早くのうちに意識して、おませな街で、そういう雰囲気みたいなものを持って居て、もしかしたら中上健次というのは、可なりませたガキだったかもしれないですよね。
そういう強く血の中に一年に一回そのものを感じる場所なのであって、自然そのものに原始的で色の濃いものが残っていて、特に新宮という街は、性も含めた濃い祭りが続いている。非常にコアナ場所です。そいう場所に生まれ育った、すごく中上健次はずっと熊野大学にも?、多分中上さんはそういう熊野をPRしようとか、自分の故郷を自慢しようとかでなく、そういう熊野にこだわったというのは、熊野が持っている日本人が持っているDNAとか血とか、日本人の強さだとか大人さとか、弱さとか、そのアジア人としての日本人としていろいろなものが流れてきているので、アジア人としての日本という色濃く、それらを残している熊野というところを通して、もしかしたらそういうことをメッセイジしたかったのではないかみたいなことをと、考えます。
私たちに残されてきたものは世界遺産にもちろんありましたし、千年先に何を伝えていくか、日本人たくましさ、おおらかさ強さみたいなものを、やっぱり日本人の強みとして、何となく地べたがない様な気持になっている人たちに、日本人の血というのはここにあるよ、って、というのを、何か今一度もう一回、メッセージしておかなあかんかなと、みたいなことを。世界遺産となった責務ではないかなと、ちょっとカッコよく言うとそういうことではないのかなと思ったりしながら、新宮の宮司さんに今、頑張らねばあかんぞと。発破掛けたりしてきています。今もう一回、健次さんのお家でノートとかを発見したり、何となくなんとなく几帳面に書かれた走り書き、今自分たちの周りに、メッセージみたいな気分になるものが、断片的に拝見出来て、やっぱり先を観て、ずっと先を観て、残してくれたメッセージめいたみたいなものは今、本当に私たちが、私たちが紐解いて、教えてもらってもなんかまだあまだ通じていくものがあるのじゃないのかな、それくらい、日本人というもののルーツを見続けてきた人という其れは、日本人を観るというのはアジアを観ることであり、世界を観ることであった、そうやっていろんなものを見ながら、ずっとずっと先を観ていたので、今私たちが見ても何か残されている様な、その沢山持っているのではないかな、メッセージを頑張らねばいかんと紀さんと意も健次さんのノートとか発見しているのだが、残されたメッセい―が残され断片的ではあるが、残してくれたメッセージみたいなものを――通じて行けるのでは。日本人を観る事はアジアを観、世界を観るという視点を残し考えさせてくれているのではないか。いろんなものを見ながらずうっと先を観ていたので、私たちに残してくれたメッセージをたくさんたくさん残してくれたのではないか。熊野大学とは違って、東京という場所で、そういったことを感じられると思える様なインテリジェンスの、いい意味でのいい過去という意味でなくて、インテリジェンス野人たちが沢山いる場所だと思うので、また、熊野大学と関係しながら、東京という場所で、熊野・中上健次のメッセージしたり、発し続けることができたら、もしかしたら楽しいよね、なことを思って、一寸、同じ紀伊半島に生きる者として最初に、中上健次について、ちょこっとだけ中上健次が先に観たものを今、日常的に感じている熊野のことをお話ししました。少し長くなりましたが、皆さんありがとうございました。(大きな拍手)
中上紀さん朗読とトーク
よろしくお願いします。
今日は朗読とトークということで、録音してから投稿しようと思ってるんですけれども、その前に前置きというかご挨拶というか。
去年で父が亡くなってから20年ということで、私の中でもすごく節目というか大切な年というか、色々考える機会でもありまして。家に、先ほど日根さんもおっしゃってましたけど、父が残したノート類がすごくたくさんあるんですね。それで、実は私の家は昔八王子にあったんですけど、88年に火事で全焼してるんですね。父が亡くなる4年前だったんですけど。なので、88年に燃えちゃったものはすごくたくさんあるんです。父が初期の頃の、原稿とかノートとか。
でも、84年から新宿に、熊野神社のお社があるんですけど、今でもそのビルがあるんですけど、ストーク中央公園ていうマンションなんですけど、そこに仕事場を借りて新宿にずっと寝泊まりして、書いたりとか、ほとんどもうそっちに行きっぱなしだったので、わりと84年以降のものっていうのは残ってたんですよ。
それが今家にあって、父が亡くなってすぐ後に、1年後とかそれぐらいのときに、全集をですね、柄谷行人さんとか浅田彰さん達が中心となって、編集などをやってくださって、父が亡くなって翌年に全集が出たんですよ。その際に整理をしまして、母がほとんど全部目を通したりして、ノートとか、ある程度のものは全部目を通したんですけれども、目を通しきれなかったものもいっぱいあるんですね。
ノートもあるんですけど、ごちゃごちゃっとしたものはもう全集の時に整理できないと母が音を上げたものがどっさりあって、原稿の切れっ端とかメモったものとか、そんなものが実はあるんですね、という話を、去年ちょっとだけ話をさせてもらったんですけど、母が整理したくないと言ってるので私が引き受けて。本当とんでもない量で、もういや、みたいな。私が見ても本当、ぐちゃぐちゃで変なこと書いてあったりもするしね。まあ外に出せるものと出せないものがあるんですけれども、とにかくその、私なりに父の歩いてきた足あとを、年表をね、高澤秀次さんがすばらしいものを作ってくださいましたので、そういうものと照らし合わせたり作品と照らし合わせたりしながら、私なりに紐解いたり読み解いたりできないかな、ということが私の20年目の新たな課題ということで、今すごく考えていて。
熊野大学のコーディネーターとしてやらせてもらってから、2009年からなので4年目なんですけども、そういうこともありまして、ずっと並行してやっていきたいと思っているので。あと、ちなみにノートで「私は<日本>人なのか」ってありました。A4の紙1枚に、赤い字で、真ん中に書いてあったんですよ。わざわざ署名まで入れてある紙に。
非常に、こう、面白い謎だし、そういうのを私なりに家族としての視線で、あとプラス、私も同じ、物を書いたりしている端っこの方にいる人間ですので、そういう視点からも勿論見られると思うのでやりたいなって、今すごく思っていて。
まあこういうせっかく、東京での会ってというきっかけでもありますし、一緒にそういうことを語り合いたいなって思ってます。それが私なりの報告でございます。
まずは朗読ということなので、朗読をしたいと思います。今回2作品を読むのですが、最初に読むのが自分の短編です。そしてその後、ちょっとサプライズということで、よろしくお願いします。
自作短編「蓮池」と父中上健次「蒼い朝顔」の短編について
『蓮池』
『青い朝顔』
青い朝顔』って実は全集に入っているのかな?あまりメジャーではないんですよね。父の作品の中では。確か亡くなったあとに発見された短編で。「すばる」でしたっけ、掲載されたの。どこかに掲載されてたんですけど。亡くなったあとに。でも亡くなる前は雑誌とかに載ったことはなく、全集には確か入っていたのかな。フランスで最初出版されたんです。もちろん日本語で書いているのですけれども、フランス語で翻訳されて、先にフランス語のほうで出版されて。亡くなったあとに日本語の原文のほうが発見されたという、そういう話なんですけども。
こちらはですね、『牛王』という熊野大学の東さんがとか、色々な方が作ってくださっている本で、毎年出しているんですけども、その4号に乗っているのでそちらから。
全ては読んでいないです。一部だけ、飛ばし飛ばしで読んでますので、話が変かな、って感じだったとは思いますけれども、私の中で、自分の『蓮池』という作品は、非常にこの『青い朝顔』という作品とリンクしているものがありまして、朗読をする際は、今まで、この2つの作品を同時に朗読したことが2回あるんですけれども、最初は「風花」という文壇バーで、朗読を定期的にやっていて、今もやっているんですかね、あるんですけど、そこでやらせていただいたときに読んだっていうのと、あと2006年の熊野大学夏期セミナーで、1日目のイベントの際に、黒田征太郎さんがライブ・ペインティングをやってくださって、去年もやったんですけど、その前の2006年のときも黒田さん来てくださって、
そこで私が朗読をするときに、これを読ませていただきました。
背景としては製材所とか、材木とか、出てきたと思いますけども、熊野は山が多く、昔から材木業が栄えていまして、今でも勿論あるんですけども、川を、材木を運ぶ道として使ったんです。山奥から切り出してきて。
例えば北山村とか、飛び地ですね。奈良県の中にある和歌山県、みたいなかんじであるんですけども、北山村がどうして飛び地かというと、やはり材木がすごく深く関係しているんです。材木を流したり、どうしても新宮とリンクしていたい。西村伊作というすごく富豪の人もいるんですけども。
それはおいといて、とにかく材木業が栄えた所でイカダを使って流すんです。熊野川に流して、河口の所で木材を集めるんですけども、熊野川の河口のところには昭和30年台くらいまで川原町って町ができていて、川原町に行けばなんでもあって、泊まることもできたし食事もできたし、簡易ハウス?今で言うプレハブみたいなすぐに撤去できるような、2時間くらいで作れて2時間くらいで撤去できるような、その簡単な家屋建てて、そこで商売したりとか、そういう客がわーっといたらしいですが、今はないんですけども、昔はあったと。
ダムが昭和30年代にできてからそういうものがなくなったっていう話なんですけれども、そこに当然のことながら製材所とかもできるんですけれども、うちの父が多かった時代、昭和20年台、21年生まれなので、この話に出てくる時代がちょうど20年台ですが、その頃はまだ材木がいかだでいっぱい、熊野川にわーっとあった時代だと思うんですけども、路地、中上文学の中で路地ってすごく大事ですけども、路地の子供たちは貧しいので、本当にこの通りだったと思うんです。
まあ、本当にこれと同じ事が中上健次の過去にあったかどうかはわかりませんけれども、でも子どもたちの生活ってこういう生活で、薪をお金を出して買えないから拾ってこなくちゃいけない。でも、拾うんじゃないんですよ。もう、盗むんですね。ほとんど。そうしないと、そんな都合よく落ちてないんですよ。みんな拾うから。ほとんど盗んだんだと思うんですけども、そうやって生活していっている背景が描かれていて。
私の祖母は行商をして子どもたちを養ったっていう人で。すごく、最初の『蓮池』を読んだ時には私は祖母のつもりでやりました。その時代を書くとき、私が父の小説を題材に使って書いたりしたことってこれだけなんです。普通やらないんですけど、なんで書いたかっていうと、最初英語で書いたんです。
アイオワに行ってたときがあって、International Writting Programといって、いろんな国の作家が来て3ヶ月くらいそこに住んで、シンポジウムをやったりするプログラムに、うちの父も82年に参加しているんですけど、私は2002年に参加していて、その時アジアの作家・詩人だけでイベントをやろうってことになって、そのために書いたんですね。英語で。朗読をするために書いて、読んで非常に好評だったんです。
日本の昔の生活を書いて、楽しんでくださったので、自分でも気に入っている作品だったので、英語だから書けたんです。そして、日本に帰ってきてから、自分で日本語に訳して、多少変えるところもありましたけれども、一回「表現者」という雑誌にのりましたけれども、そういう背景があります。多分、私が小説家として中上ワールドを題材にやることはおそらく二度とないだろうって。
熊野のことは書くけれども、路地とか中上ワールド的なことはもうやらないんじゃないかってことで、皆さんとシェアしたいなって思って今日は持って来たんですけれども。
材木って『地の果て至上の時』に話がいきなり飛ぶんですけれども、あれに材木の話出てきますよね。ろくさんの家に、ろくさんっているじゃないですか。私最近のヒットはろくさんの家に行ったことなんですけども、夏の時にも言ったんですけど、シンポジウムのときも、本当にろくさんって、いたんですよ。『地の果て~』読んでいない人には何のことかわかんないかもしれないんですけれども、本当にろくさんという人がいて、うちの父の同級生の松本巌さん、熊野大学の理事長の松本さんの、奥様のお家の所有のお山で、お仕事をなさっている方なんですね。ろくさんて。家の父も仲良くなって何回も行っていて、で、その小屋に松本さんに連れてってもらったのが私の中ではヒットで。時がもう80年代で、ろくさんて亡くなってるんですけど、とっくにね。でもその亡くなった時のまま、あるんですよ。家とか、埃被っりたとかしてるんですけど、ちゃんとテレビとかテーブル、テーブルというよりちゃぶ台みたいなのがあったり、囲炉裏があったりして。
すごく私がこう、小説とリンクしてるなって思ったのは、秋幸が冒頭でろくさんのところに行くじゃないですか。小説の冒頭で。でそのときに手造りの樋があったんですね。その手造りの樋でその水で顔を洗うというシーンがあったとおもうんですけど。これは来たなーって思って、すごく、こう、小説の中の秋幸の世界に自分があったっていうのも、感動でもあるんですね。
それよりも、そのスサノオ的なものというのを、すごく、やっぱり、スサノオだったんだ、ろくさんは。
スサノオって神様じゃないですか。農耕とか、木を植えて、熊野というより日本に木をもたらした神様で。神様って死なないじゃないですか。だからろくさんてやっぱり神様だったんだと思いました。
で、それがあって中上健次の小説の中にはスサノオがいるんですよ。それで、秋幸もスサノオだと思うし。幸徳秋水だっていう話があって、そんな話もされてましたけれども、もちろん幸徳秋水もそうなんですけれども、スサノオの世界っていうか、熊野ってそういうところなんだって。すごく大きなものを感じて、もっともっとこう、知らなきゃいけないことがある気がしましたね。
そういうことを感じまして、その話にもこの『青い朝顔』はスサノオワールドの末端の世界ですよね。路地の子供が木を拾っているっていうのは。
結局、天皇と対極にいる被差別の世界の人々とか、そういう話にもつながってくると思いますし、非常に面白い世界だと思います。
そういうようなことをいっぱい語りたい、という気がします。
という感じです。
ありがとうございました。
【参加者による自己紹介】
〇小平さん
はじめまして。小平と申します。仕事は写真家で、中上さんとはあちこち、面白いことをやりましたし。
熊野のキャンペーン、たまたま世界遺産の時にポスターとかを取って、そのご縁で日根さんとも。多分僕が紹介したんじゃないかと。
今日は天気もよかったし、散歩がてらお邪魔しました。多分なんですけど、僕は開高健さんと一緒に仕事をしてことがありまして。オーパーのチームと我々が合流した時に、確か中上さん、ニューヨークにいらっしゃったんじゃないかなと。
僕はまだ若かったのでよくわからなかったんですが、皆でわいわいやった記憶があります。
今後ともよろしくお願いします。
〇上條さん
上條と申します。普段はしがないシステムエンジニアをやっていたんですが、仕事にあぶれて、システムの営業を細々とやっています。なかなかうまくいきません。
『牛王』の編集委員、縁があってお手伝いすることになりまして。3号のころからお手伝いをしていたんですけど、正式にやりだしたのは、8号から。
『牛王』のホームページも作りまして、適宜二週間か三週間に一辺くらいブログを更新なんかをしているので機会がありましたら覗いてやってください。
もし興味がありましたら、バックナンバーなどそこで販売していますので、買って下さい。よろしくお願いいたします。
〇吉田さん
吉田と申します。今は『すばる』の編集部の編集をやっているんですけど。2006年に、学生の時に熊野大学に参加して、それからぽつぽつと熊野大学に聴講生として。
去年から『すばる』に入って、中上紀さんの担当になりまして、それで初めての仕事が去年の結成号。『熱の熊野大学』というエッセイを頂いたのが始めての仕事で、なんとなく熊野からの縁が今の自分の仕事に活かされているなぁというか、そこが出発という感じを持っています。よろしくお願いします。
〇佐藤さん
佐藤康智と申します。文芸評論家をしておりまして、熊野大学には2009年から毎年通っております。出身は岩手県花巻市で、山折さんと同じ。山折哲雄さんを調べたら高校の後輩だった。どちらかというと、今は二刀流の大谷投手が有名で。勿論応援しているんですけど。
四年前に花巻東出身の菊池雄星が、今日楽天戦で投げているんですけど。これがあるんで、二回裏までしか見られない。凄く気になっているんですけど。
どうか、よろしくお願いします。
〇岡田さん
岡田と申します。よろしくお願いします。
『牛王』の編集委員の上條さんと共に、『牛王』の編集委員を8号から、一角を、片隅に置かさせて頂いています。
本業は、最近古巣でありました、NHKのドキュメンタリー番組に関かわることが多く、ここ2年ぐらいなりまして、プロデューサーがかなり気合の入った方であるので、是非中上健次さんもしくは熊野の番組をというのを、熊野をなんとか組めるような番組ができないか、と今画策しているところがあります。道はほど遠いですけど。熊野大学には1999年から参加しまして、2000年から御燈祭りに参加してまして。さっき見せた禊のところの背中は、僕です。これは御燈祭り自体は二千人なんですけど、これは数十人――30人くらいの有志がやるんですね。これが、僕は実にこれだ、と。
さ っき色のことが出ていましたけれども、音が凄いな、というのを、熊野に行くと思うことで。特にこれをやっていて、砂利浜なので、僕の拙い擬音では表現できないような、ザラザラっと。当たって血がでたりするんですけど。この音に僕は、最初に体験した時に、可笑しくなりまして。熊野大学には来なくても御燈祭りには来て。ここに来ると音が凄いなぁといつも思います。
こういうのを見ていると、私は東京産まれ、東京育ちなんですけど。こっちのほうが世界に開いけていて、東京ってすごく田舎だなぁと思ってしょげている感じです。最近東京にあんまり良いところが見当たらなくて、皆さんに東京の良さも教わりたいと思っております。よろしくお願いします。
〇中川さん
中川と申します。はじめまして。熊野大学は初めて参加させていただいたんですけど。東京で和歌山を応援するという「紀友会」という、「紀州の友の会」というものがありまして。年に三回ほど例会で、和歌山に由来する、縁のある方にお越し頂いて、スピーチを頂くんですけど。次回6月7日、実は中上紀さんにスピーチを頂くということで、ご挨拶も含めて、伺いさせて頂きました。
今日初めて健次さんの作品に触れたんですけど、やっぱり面白いというか深いというかということをものすごく感じました。
僕は大坂出身で、大学は和歌山で四年間通っていたんですけど。ほんとうに和歌山のことは全くわからない。
四年間通っていても、うわ辺の、本当に上の部分しかわかっていなかったので、東京にいながら、和歌山のことが深く知れるということは、ものすごく勉強になるなと思います。ありがとうございました。
〇高橋さん
高橋と申します。
熊野大学は昨年初めて、没後20年の健次アカデミーから初めて参加させていただきまして。中上に触れることが出来て、すごく感慨深くております。
一昨年に中上を読もうとしたんですけど、すごく読みにくくて、いつも断念していたんですけど。その昨年の3月に初めて読んで凄いなぁと思って、それからネットでいろいろ調べてみたら、熊野大学というものがあると知って、そこからずっと準備して、参加したという。
今は就職活動中で、忙しくてなかなかできないなんですけど、こういうのがまた発信できたらいいな、と。
今、僕が21なんですけど、もうちょっと中上を読んでくれる若い人が増えてきたらいいなぁと思っています。よろしくお願いします。
〇高田さん
日本大学の修士1年の高田と申します。今日は同級生の藤原さんに誘って頂いて、参加しました。学部の二年生の頃に中上紀先生の授業でお世話になった事があって、久しぶりにお会いしたいなぁというのもあって、今日は参加しました。
私も大坂出身で、ずっと大学に来るまで大坂に住んでいたんですけど、同じ関西でも和歌山には行ったことがなくて、あんまりイメージもなかったので、和歌山についてやっているというので、どんな感じなのかなぁという興味もあって、今日は参加させて頂きました。よろしくお願いします。
〇堂西さん
こんにちは。堂西と申します。和歌山県の海南市の出身です。熊野大学の会のこういうには始めて参加させていただきました。
熊野大学というものの存在自体は中学・高校くらいの頃から知っていて、気にはなっていたんですけども。
大学は東京に出来てきまして、文学部でした。三田誠広さんという小説家の先生に大学でお世話になってまして。その時に、僕は三田先生の大ファンだったんですけど、皆さんほど中上健次さんの作品を知っていたり、深く読んでいるというわけではないんですけど。
三田先生がよく、「私の同世代の文学者で、東の横綱は中上健次だったんだ」と常々語ってらっしゃいました。あと六本木の飲み屋さんとかで中上健次さんと飲んでいた時の中上さんの武勇伝とかもいろいろと。
本当に中上さんというのは、三田先生をはるかに陵駕した凄い存在なんだな、というのは刻み込まれていまして。今日を機会にまたその認識を深めていきたいな、と思ってます。
私は今、瑞穂町という、東京都の西の外れの町で、自治体の職員をやっています。多分これから、少なくとも当分は東京都の西の外れで暮らすことになると思うんですけども、結婚もしましたので。
そうなると、故郷の和歌山のこと、特に熊野のことが最近凄く気になるようになりまして。
いろいろ熊野のこととか和歌山と、何とか繋がって、またこの地で暮らしながらも、その価値を見つめなおしていくということができないかなぁと、中川さんのなさっている紀友会にもお邪魔させていただいたりという中で、今回この熊野大学ということを知りまして。
今後とも参加させていただきたいと思っております。よろしくお願いします。
〇今井さん
今井と申します。こう見えても、再来月で69歳になります。中上健次さんの熊野大学にはかれこれ、約5年間くらいずっと出てまして、64歳くらいの時から行ったのですが。中上さんの生き様に非常に共感を得るということで。
大逆事件にというものにぶち当たりまして。興味があって、今日この会に参加して、一つの発見がありました。
実は大逆事件というのは、一昨年、大逆事件100年、ということで、かなりマスコミに出たんですけど。実際に大逆事件というのは、実際には大きくなるのは、今から15年前なんですよね。これを見たら、中上健次さんが「アキユキ」という、幸徳秋水ということで。これがそうだとしたら、殆ど新宮とかそういう周りの土地以外の土地をあまり知らないわけですよね。ですから中上健次さんは、相当早い時期から大逆事件に注目して、ということが今日わかりました。
実は一昨年、日仏会館で大逆事件とドレフュス事件というシンポジウムがあってですね。その時に中上健次さんがフランスから、テレビかなんかで取材を受けましたよね。その時の中上健次さんの通訳やっていた方と知り合いになりまして、その方が今、東京理科大学の教授なんですけね。その人が大学院の学生だったときに、常に長い間衣食共に通訳として同行して、毎晩酒を飲んで居たといっていたんですけど。その時に中上健次さんが、「大逆事件は日本のもっとも深い暗部だ、それを書くのが私の使命だ」ということを、その人にはっきり言っているですよね。
だから、もし中上健次さんが大逆事件の100年までもしご存命だったら、どういう切り口をするのかということで。非常に興味がある。これからのテーマの一つとして。やっぱり「中上健次」と「幸徳秋水」と「大逆事件」というのは切っても切れないと思うんですよね。
去年もシンポジウムでもやったし。一昨年もシンポジウムもありましたよね。おそらく大逆事件もあと100年くらい続くという話であるので、健次さんの熊野大学もこれから先、同時並行で続くんじゃないか、と楽しみにしています。よろしくお願いします。
〇脇坂さん
脇坂と申します。熊野大学は今回が初めての参加です。今、大学2年生でここの日本大学で学んでいます。
4月から中上先生の授業をとって、そこで熊野大学を知って、今日参加しました。ここの学生なので、宗教史なんかで合田先生とも。
僕は合気道をやっていまして、合気道の開祖である植芝盛平先生という方は和歌山県出身で。そういうところにもご縁を感じて。
中上健次さんはそもそも、僕は村上龍が高校時代すごい好きで、その中で村上龍なんかは、「第二の中上健次だ」といわれていた時代もありますから、そこで中上健次を知って。
そこでシラバスを見てですね、娘さんが自分の通っている大学で先生をしていらっしゃるということで。いろいろ合気道とかそういうことでご縁を感じているので。これからもよろしくお願いします。
〇谷口さん
日本大学修士1年の谷口と申します。昨日藤原さんが院生の方ににメールを送られて、フラッと来てしまいました。よろしくお願いします。
〇山田さん
日本大学3年生の山田です。4月から中上紀先生の授業を受けて、それで今回は初めて熊野大学に参加させていただきました。よろしくお願いします。
〇合田さん
合田と申します。よろしくお願いします。日本大学で宗教学を担当しています。
専門はインドの仏教です。サンスクリット語とかマハリ語とか。そういったテキストを読むと同時に。ただテキストを読むだけでは仏教はなかなか理解できないので、実践的側面ですよね。座禅であるとかヨガであるとか、そういったことを勿論私なりにも実践して来ましたが、それをそれを科学的にも分析していこうということで、スマチィック心理学という、所謂「ソウマ」というギリシア語で「身体」のことですね。心理学というのは身体と合わせて考えなければ理解できないということで。勿論、東洋の思想も非常に深く関係している、そういう心理学の研究会合をやったり。
日本トランパーソナル心理学という精神学会という学会があるんですけど、そこの副会長もやっていて、東洋の思想と西洋の心理学、精神医学、脳科学とかを融合していこうということにも今凄く力を注いでいます。
僕、中上作品、もちろん以前から読んでいたんですけども。助手時代にですね、ある教授にゴールデン街に連れて行かれて、そこのお店にも中上さんも来ておられた。
その後、ゴールデン街のいろんな店、二丁目の店につれて行かれまして。たまたまなんですけど、その殆どの店が中上さんが生前来ていらしていた店で。特に、今すごく親しくしているマスターで、安田さんという方がいるんでけど。この方はシルクハットという、非常に老舗のお店を持つ、もう三十何年になるのかな。そのマスターの安田さん、『讃歌』という作品の中に出てきます。シルクハットというお店と、名前は出てきませんけど、マスターも今もお元気で、そのままの安田さんの人物像で出てくるので。
『文芸首都』で、同人誌のメンバーで中上さんと親しくしていた方も飲みに来ていて。
いろいろ聞かされて、その後、僕もこれは読まなければいけないということになって、より一層読み出したということがあります。是非機会があれば、熊野大学も是非参加したいと思っております。今後ともよろしくお願いします。
〇合田さん
こんにちは。合田と申します。フリーライターをしております。ただフリーライターといっても、文芸には全く関係なくて、化粧品とか健康関連のものを主とする広告というか、コピーを書いています。コピーや文章、取材記事を書いています。
学生時代、大学時代に中上作品を読んで、皆さんそうだって思うんですけど、こんな文学があったのか、と衝撃を受けまして、細々とずっと時折読み返して、ずっと20年くらい繰り返していておりまして。
去年本当に偶々、新宮出身のカメラマンさんとか編集の方とかとても周りに知り合いが多くて、「いつか熊野にいきたいんですよ」となんて話をずっとしていたところ、去年のプレスブレスリングにいろんなご縁で参加していただきまして。それ以来、日根さんとか紀さんとかと交流をもたせて頂き。
熊野大学にもずっと憧れていたのですが、私如き一ファンが参加してもいいんだろうか、とずっと踏み出せないのを、ご縁を頂いて、去年初めて参加することができて。それ以来、これまで貯めていたものが出て行くような感じになっていて。
今回もこういう会にことあるごとに参加させて頂ければと思っています。これからもお見知りおきください。よろしくお願いします。
〇杉崎さん
日本大学大学院修士1年の杉崎と申します。学生の時に中上紀先生の授業をさせて頂いて、去年の熊野大学夏季セミナーに参加させていただきました。よろしくお願いします。
〇藤原さん
修士1年の藤原と申します。合田先生について勉強しています。
紀さんとは大学授業で会って、熊野大学は二年連続で参加しました。よろしくお願いします。
〇石井さん
石井と申します。産まれが伊豆半島なんです。紀伊半島の大きさに常に、小さい時から、地図を見ると羨ましく思っていたことがありますし。
合田先生が宗教学ということで、僕はアミニズムみたいなところにとても興味がありまして。別に専門にやっているわけじゃなくて。熊野を感じると日根さんがおっしゃったんですけど、そういうところがあって。
今度68歳に。64歳の時に心筋梗塞で九割方あの世に行って、あの世は見えなかったんですけど。それから日根さんが世界遺産の宣伝での講座が朝日カルチャーであり、中上紀さんがきて。一枚の熊野大学のパンフレットを余っているのをもらって。中上さんの本を見て、ちょっとサインをして貰って、ちょっとありまして。
直に電話して、本当はもう受付が終わっていたんですけど、滑り込ませて頂いて、それから参加させて頂いて。命を貰っているというか、行くとなんか知らないけど、行くと元気になってくる。生かさせているという感覚で。
飲むのがとても好きなのですから、夏の一日前に行って、大体二軒か三軒知り合った店で、あちこち飲み回って。でも熊野大学にもずっと、夜は、二泊三日すると、一年目二年目三年目は平均寝たのは三時間か四時間くらい。若い人達と話すのが、去年もそうだったんですけど、とても楽しくて。それでまたあと一年頑張ろう、って。その前に御燈祭りがあるので、半年ごとに生き返らせてもらって。
そういうことで、こういう縁がありまして、若い皆さんと、熊野に行くことも大事だけど、折角向こうで会ったので、こちらでもと。
飲み会を中心に続けていけたらな、と思っているので、今後ともよろしくお願いします。
〇中上紀さん
今年の熊野大学の夏季セミナーについて。企画コーディネーターをやっている関係で、知っているんでけども、着々と準備を始めていまして。
日程は8月2・3・4日、金・土・日とやります。毎年同じ時期なんですけど。
今年のテーマなんですが、中上健次が故郷・熊野新宮の次に愛した場所である、それは韓国のソウルなんですけど。紀伊半島、朝鮮半島という「半島」というテーマでやる、というふうに決まっています。韓国から作家を呼びます。もう押さえてあるんでけれども。
『菜食主義者』という映画にもなった作品を書いた、女性の作家でハン・ガンさん。韓国って「ハンガン」という川がありますよね。そのハン・ガンさん。私よりも一つ年上の、同じ世代の女性の作家さんで、その方が来ます。韓国を音楽を作ったりしている関係でそういうことをやったりとか。あと韓国の半島の話を、いろんな文化人の方、日本人も含めて、呼んでしてもらって、ということを考えていて。
もう一人、女性作家を呼ぼうと思って、今、調整中をしています。日本の女性作家です。
因みにハン・ガンさんのお父様は、私の父の韓国でのとても仲のいい友達で、ハン・スオンさんという方。ユウフンギルさんとか、仲がよくて。
うちの父が韓国で入院した時も、病室をうちの母がわざわざ日本からお見舞いに行った時も、みんなで酒盛りをしていて、その中の一人がハン・スオンさんだったらしんですけど。娘さんが作家で、私と似たような境遇でなんですけども。
実は7月、東京で対談するんです。国際ブックフェアが東京ビックサイトであるんですけど。本がいっぱい置いてあって、その中のイベントで、韓国の作家と日本人の作家が対談するトークとかがあって。あと一人、オ・ジョウインさんという女性作家の大御所の作家で、多分60歳前くらいの有名な方だと思うんですけど、その方と三人で話すということをやります。それもできれば来ていただけたらと思うんですけど。
ハン・ガンさんは、熊野大学に来ます。もう一人と日本の作家と私と三人で話そうということになっていますので、お楽しみに。
あと一人、村上龍さんとか、そういう方を来ていただきたいな、という話しになっていて、それはまだわからないんですけど、一日目に知名度のある人をお呼びして、韓国の話なんかを出来る方をお呼びして、盛り上げて、という予定もあります。是非、ご検討ください。
編集委員から
第1回「語る会」を終わって
60台を始め現役の学生さんまでの多様な層にまたがる20人余に集っていただきました。大学の講義、ゼミ教室に、久しぶりに学生気分に浸りながら、何と40数年もたってしまったんだと感慨に耽る。
中上紀さんの朗読された自作の「蓮池」は父の作品と初めて同じ材題での作品ということで、健次の「蒼い朝顔」も合わせて朗読とお話をしていただいた。
中上紀さんが、中上健次の残した相当量の未整理の書きものの中に、「私は<日本人>なのか」中上健次。このエピソードはこれからの健次を読みこんでいく上に重要なキーポイントとなる予感がする。すでにそれぞれの分野の評論家の方達の研究にもあろうかとは思うが、あらゆる著作の中から日本人とは何なのか、日本人はどこから来てどこに行くのか、縄文人なのか、果たして我々は日本人であるのであろうかという、文化人類学的、民俗学的、民族学的などもろもろの膨大な分野においての問いかけてと著作を書き続けながら、結論が出ない中で旅立って行ってしまった中上健次の思いを、生きざまをそして見据えていた人間、日本人かと問いかけ続けたであろう彼の道筋をどうとらえる事が出来て行くのか、これから少しづつでも解きほぐしていきたいものです。偉そうなことは何一つないのですが、タイトルに込められた軌跡を探るのも解いていくヒントになるかもしれないなど漠然と思っているところです。中上健次没後20年という節目を越えて、彼の世界観というのか、小説の手法も異なるまた異なった中上紀さんが居る。そして熊野を抱え込みながら、東京において新らしい世代に向けて発信して行く、そして東京という雑多でかつ聴講生の多い東京で熊野大学に呼応しながら、楽しい集いを一方で基盤にしながら、熊野および中上健次を語り継いでいきたいと願うところです。
(石井)