アメリカに家族で住んでいたのを何か収拾付けたかったのか、家族で新鹿に移り住みました。新宮市での路地解体が始まり、新宮には行きたくないが、より近く居たかったのではないかと思う。青山伸治さんの映画「路地」にありますけど。新鹿では有機農法で小さい耕運機を買ったり、最初の3週間くらいやった。新鹿の家の近くは草ぼうぼうで、いろいろやりました。ジャガイモやトウモロコシなど、本格的な草取り苗植え、手伝いはしましたよ。
この時、移ってから1週間しかたっていなかったたとき、熊野市の、二木島で、猟銃殺人事件が起こり、その取材などをした時期でもあります。後に「ひまつり」の題材となる・・・。
⑤ワイキキの浜辺で
88年、自宅の火事の時と同じか。初めてハワイ・ワイキキの祖母と祖父とお姉さんと父4人のムームーを着た写真。
おばあちゃんとお爺ちゃんと長姉嘉子。おばあちゃんがアメリカの料理は食べられないので、それではお粥さんを作って食べようということになって、材料やコンロを購入して準備して、朝6時ころ浜辺で輪になって食べたそうです。日輪の翼の老婆たちがお粥さんを炊くシーンがありますが、まさに自分の小説に書いたのを実践したという。
そんなエピソードもありました。私もあこがれがあるので、いつか自分もしてみたいと。
2.海外旅行における健次
年譜をつぶさに見ると、如何に短期間の間に旅・力・取材と国内外を精力的に訪ね、それを材題にあらゆる分野での小説、エッセイ、評論等を展開してきたかがわかるし、まさに旅そのものが動きながら書き続けたという、それがまさに夭折作家の軌跡でもあるのではないだろうか。
3.友人関係について
紀さんは会場からの質問に答えて、語る「作家仲間というより、酒場、酒の席でお友達になった方が多いんではないでしょうかね。勝目梓さん、黒田清太郎さん、:原田芳雄さん、********」と。
特に韓国の作家の方々やミュージシャンとのお付き合いが深くかつ多かったようです。旅とそこで知り合った人とはすぐに友達になっていたようである。
若い衆とすぐに仲良くなり写真に写る。自転車・ポン引き・などの若者と。