第3回活動報告

開会のあいさつ

 

くまくま会代表  石井泰四郎

 

 皆さんこんにちは。10月というのに暑い中くまくま会第3回例会お集まりいただきましてありがとうございます。今日は50人ほど集まっていただくつもりだったのですが、三連休にかかっているということはリタイア―した者にとっては忘れておりました。

今日は中上紀さんに・秘蔵の写真というか未公開なものを中心に家族としての中上健次、父として作家としての健次像というようなことをお話いただきます。人物像というか文学というものでない世界の、違った意味での健次像を膨らませることをお伺い出来る機会になるのではないかと思います。

また、合田先生にはコピーなどもしていただいたり、先回に引き続き会場をご用意いただきましてありがとうございます。今後ともよろしくお願致します。そして大阪から樹下さん、三重県桑名から佐藤さん、東京の会と言いながら遠路お越しいただきました。あっ、和歌山県からも、ありがとうございます。

では、中上紀さんよろしくお願いします。

参加された方には情報は送り続けたいと思っておりますので連絡先をお書きください。


※編集委員注

<紀さんが上映した60枚に及ぶ写真の中から、今回公開してよいもの10点を選んでいただきました。編集部のほうで大きく3つに分類し、それらのコメントについては、ほぼそのまま載せました。>


では始めたいと思います。機械音痴なのですが、パワーポイントを初めて使ってみました。皆さんのお手元に年譜があります。これは高澤秀次先生が父が亡くなって、すぐにお出しになった、「評伝 中上健次」に健次が生まれてから死ぬまでを克明に記載してあるものを用意しました。これを参考にしながらお話します。(*「評伝 中上健次」高澤秀次著1998.7巻 中上健次略年譜P253~264参照)

持ってきた写真は世の中にすでに出ているもの、知られているものもありますが、世に出ていない、家にあったもので出版社の方などが撮ってくれたのもので許可が取れない、確定できないので世に出せないものなどを持ってきました。


最初、この写真は那智の滝での新宮の姉たち家族との写真です。

19歳の頃、上京前後かと思います。

何とも、ぼやっとした表情ををしてます、ね。

(会場から―涼君に似てるね、何ともボーオとした感じが)

そう、弟の涼に似てるかも知れませんね

前の左が2番目の姉、右が3番目の姉。その後ろに立ってる男性が3番目の姉の旦那さん。韓国の方で、非常に父は親しくて、韓国大好きでよく話しをしてました。このころから父は子どもの頃家の近くに韓国の子供たちがいて、その子らと遊んでいたようです。集落の子供たちとはあまり遊ばなかったようです。そのころから仲間外れというわけではないですが、異質であったようです。


  1. 家族・親戚における健次について

    紀さんはこう語っております。

    「新宮とかでの親戚の集まりにおける表情はあまり見ない感じでしょう。結構若い時には親戚の集まりなどにはよく出ていたようです。親戚の前なんかでは、なんというか子供子供したところを、子供っぽいところを出したり、気の使いようというかおどけてみたりという態度をとることが多かったように思う」

①生まれたまれたばかりの紀さんを抱いている。

24歳で結婚し、1971年1月私が誕生。


(国分寺のアパート前で)


父の兄が24歳の時自殺をします。父は12歳一回り離れで、自分の責任を感じていた。おばあちゃんが他の人の結婚して、父だけを連れて、他の所に住んで、兄たちは置き去りにされた。自分だけ、俺のせいで兄は苦しんだんだと。自分も24歳で死ぬんだと、その兄の自殺を背負いながら生き続け――結果的にはそのことが小説家にしていくんですけれど。

こそっと私に言ったことがありました。「24の時お前が生まれた。俺はこれで生きられるんだと思った」と。そうなんだ、と。


②新築の新宮の庭の池にて健次に抱かれている紀さん。

 

那智大社へお宮参りをしたころの写真。

(野田の新築した庭にて)


父の本当のお父さんのお母さんが住んでいたところに、春日から野田に移った。実家の庭に池と橋があって、錦鯉を飼っていた。父は坊っちゃんぼだったといわれていた。建築会社、土建屋、で儲けていた。そんとき建てたもので、父は当時(昭和40年ころ)3万円もの仕送りを受けていた(今だと30万くらいか)。名古屋の姉から可愛がられていたので仕送りがもあったので、それは凄いこと。小さいころとのギャップがすごくて、その当時は皆貧乏で、芋の尻尾を食べていた時代。姉たちはおっばあちゃんの所に健次を連れていくと、「健次来たんか、来たんか」と可愛がっていたので、菓子や芋ががもらえる、ということで姉たちは、かわいがられていた健次をだしによく連れて行ったよう。母は行商をしていたので、留守にする時、いもを蒸かしたのを置いていくと、当時エプロンをしていた父は、そこに一生懸命芋を入れているんだそうです。「どこへ持っていくん」というと、腹違いの姉妹たちに「英子と信子と房子らがお腹をすかしているから」と持って行って、あげてたそうです。当時は皆貧乏で、あげたり、もらったりで大きくなった。養父は請負士の免許を撮る勉強していたので、母は行商をして家計をささえていた後、裕福になったようです。


③熊野川川べりでの句会の時の1枚。

父と母と妹。

俳句が好きで、自分ではあまり作らなかったよううですが、いろんな人の俳句は好きだったようです。「おりゅうのおば」を紹介してくれた松根久雄さんたちと。母によると、初めての句会だったとのこと。


④熊野市新鹿での弟を肩車